« 2015年1月 | トップページ | 2015年4月 »

2015年2月

2015年2月11日 (水)

On human cruelty 宗教と人間の残虐性

2015_0106118We are shocked by the brutal crimes committed by "ISIL"。However, beheading was used to be a very common practice of execution in many part of the world, including Japan. Thousands of people are killed and beheaded in the civil war of Shimabara in 17th century, fought between Tokugawa Shogunate government and Christian minorities. If we want to eradicate such a cruelty, we should pay attention to that intrinsic to us. We also have to be cautious about politicians who want to use mass-hatred for their political purposes.

今年の正月休みに天草へ行きました。今回の訪問はキリスト教(キリシタン)関係の史跡を見て回ることでした。崎津の天主堂と集落は長崎の教会群とともに世界遺産の候補になっています。 天草には1566年にイスパニアの宣教師、ルイス・アルメイダが到着し、以来キリスト教布教の拠点になっていきます。1580年代には神学校(コレジヨ)が設けられ、天正少年使節団から帰ってきた伊東マンショらも在籍していました。

2015_0107076_2しかし、豊臣秀吉がキリシタン禁制に方針を変え、さらに17世紀に入ると徳川幕府によるキリシタン弾圧が激しくなっていき、1637年の島原の乱でキリシタンは壊滅させられてしまいます。乱の最後は天草の対岸の島原・原城で戦われ天草からも集まった3万7,600人のキリシタンはことごとく殺戮され、首謀者は斬首された上、さらし首になります。天草の各所になりキリシタン記念の資料館や博物館は、幕府による徹底的な皆殺し作戦の残虐さを今に伝えています。
首切りとさらし首。1月下旬、われわれは“ISIL”、いわゆるイスラム国による日本人の殺害事件で目の当たりにすることになりました。現代のさらし首は映像をインターネットで流すことによって行われています。

このようなことを書いて、私は“ISIL”の行っている犯罪行為を相対化しようとは思いません。ただ、”ISIL”の残虐性には人間の本性に根差した部分があると思います。 天草下島の富岡には1万人以上を埋めたとされる首塚が建っており、そこに乱の経緯が書かれています。「供養碑」とされていますが、供養の文言はあるものの、キリシタンのことを「鬼理支丹」と鬼のような存在と表記し「邪悪なカルト集団を葬った。このカルト集団は中国でも禁止されており、除去しなければないない。このような集団が二度と現れてはならない」という趣旨で、幕府による殺戮を正当化する内容となっています。

島原の乱ではキリスト教徒が被害者でした。しかし、キリスト教が他宗教を攻撃、迫害した事例もいくらでも見られます。「十字軍」や、16世紀にメキシコ・チアパスの司祭だったラス・カサスが告発している「インディオスの破壊」もその甚だしい例です。スペインの中南米における所業の情報は徳川幕府にも伝わっていたでしょう。また、日本でもキリシタンが在来勢力との抗争の中で寺社の破壊を行ったことも事実のようです。一方で、一神教は不寛容で排他的だ、という言説が日本人の中に流布しているようですが、キリシタンへの弾圧や虐殺を見ればその根拠がないことがわかります。現在でも多神教であるヒンドゥー原理主義者によるイスラム教やキリスト教への攻撃、仏教徒によるイスラム教徒の迫害が問題になっているところもあります。どの宗教、どの集団も虐殺者に転化する危険性があるのです。 人間にはもともと残虐性があり、それを止めている制動装置がいつ外れるかわからないとういうことです。カンボジアでもルワンダでも虐殺を実行したのは隣人たちでした。「いつも遊んでくれていた隣のお兄ちゃんが僕を殺しにきた」。ルワンダのジュノサイド博物館に残されている子供の証言には計り知れない重みがあります。

他者の「残虐性」「野蛮性」を批判するとき、自分の側のそれに気が付いているでしょうか?暴力の応酬では何も問題は解決しません。一方で、いま大量殺人を犯そうとしている集団はなんとしてでも押さえなければならない。暴力に訴えるべきか、そうすべきではないか、答えの見えない選択です。ただ、国民全体が復讐感情に駆られ、それを政治家が利用しようとしているのは大変危険です。“Tout est pardonné”「もう憎しみはやめよう」。イスラム過激派に襲撃された仏誌シャルリ・エブドの襲撃後に発刊された号の見出しですが、真意は伝わらなかったようです。

« 2015年1月 | トップページ | 2015年4月 »

最近のトラックバック

2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

Twitter