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2012年4月

2012年4月22日 (日)

ルワンダのジュノサイド

3月下旬、アフリカ3か国を回ってきました。ルワンダ、タンザニア、ケニアです。まず最初に訪問したルワンダでは、義足を提供する支援を行っているの「ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」を訪問して主宰者のルダシングワさんのお話をお聞きするのが主目的でしたが、ルワンダに来た以上、ジュノサイドの問題に向き合わないわけにはいきません。ルダシングワ真美さんにご案内いただいてジュノサイドの現場を回りました。Gedc0307

ルワンダの虐殺は長年にわたるフツ族とツチ族の対立がその背景にあります。武内進一氏(JICA研究所)などの研究などでも明らかなように、フツとツチは宗教、言語等の差異はなく、むしろ階級や生計手段(農業か牧畜か)などで生じてきた差異のようです。ベルギーの植民地だった時代に、植民地統治者が少数派のツチ族を「より白人に近い人種」として優遇・重用して植民地支配に協力させました。少数派のツチ族にしてみればエリート扱いされることは悪くなかったでしょう。独立後、差別されてきた多数派のフツ族が積年の恨みを晴らすべく巻き返しを図り、両族の対立は激化していきます。1994年の4月6日にフツ族出身のハビャリマナ大統領が暗殺されたことが虐殺の引き金を引きました。暗殺事件の真相はいまだにわかっていないようですが、暗殺の直後から主にフツ族によるツチ族の虐殺が開始され、マシェットという斧などで武装したフツ族が、ツチ族を手当たり次第に殺し始めたのです。虐殺の犠牲者は3か月間でツチ族を中心に50万人から100万人とされています。

Gedc0321 この虐殺は政治的に組織化された行動があったにせよ、基本的には多くの普通の人が虐殺に積極的にかかわるか加担していたことが特徴です。首都のキガリに「虐殺記念館」があり、そこに展示してある生存者の証言では「昨日まで普通につきあっていた隣人が突然武器を持って殺しに来た」という状況だったようです。また特徴的なことは教会が虐殺の舞台になり犠牲を大きくしたことです。1994年以前にもフツ族とツチ族の武力対立は繰り返されていましたが、教会の中は一種の安全地帯となってきました。虐殺が激しくなってくると、多くの人々は「教会は安全だろう」と信じて避難してきました。しかし、1994年の虐殺では教会に攻撃が加えられ、大量殺戮の場になってしまいました。

今回、キガリ近郊のニャマタ(Nyamata)とンタラマ(Ntarama)2か所の教会に行きましたが、虐殺の現場が保存されています。遺骨はまとめて安置されていますが、穴があいたり割れたりした頭蓋骨が殺戮の残酷さを物語ります。子供の小さな頭蓋骨もあります。犠牲者の衣服は現場の残されており、衣服や教会の壁にいまだに血痕が残されています。教会の中に、残ったマリア像が悲しげに微笑んでいます。

Gedc0316 このような教会における悲惨な虐殺は全土で展開されたようですが、虐殺を阻止しなかっただけではなく積極的に協力した聖職者がいたのは驚くべきことです。「ある神父は自分のパリッシュ(教区)の信者を皆殺しにすることに加担した」と今でも言われています。この聖職者たちにとって「神」とはいったいどういうものだったのか? 最低限「他者のまなざし」を見ることができなかったのか? これは人間性に対する根源的な問いかけかもしれません。

虐殺事件というのは一人のリーダーや一部の政治勢力だけで行えるものでありません。多くの人々が関わることによって大量虐殺になります。100万人が虐殺されたような場合、少なくとも数万人がその「作業」に加わらなければその実行は不可能です。ナチスの収容所の実際に「作業」を行っていたのは下級の担当者たちです。カンボジアのポルポト政権下の虐殺事件については現在裁判が行われますが、生き残っている「容疑者」はいずれも虐殺への関与を否認しています。高級幹部が自ら殺人の手を下している事例は少ないでしょう。カンボジアの場合でも容疑を確実に証拠で示すことができるのは、収容所長のドッチのみです(http://empowerment884.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/index.htmlをご参照ください)。カンボジアの多くの村には供養塔があります。そしてルワンダと同じように犠牲者の遺骨が安置されています。多くの人々は体制に協力することでしか生き残れなかったのです。生き残ったということはそれだけで何かを意味します。このような村で30年前の事件の責任追及を行うことは、せっかく安定してきた社会で「パンドラの箱」を開けるようなものなのです。

Gedc0330 カンボジアやルワンダのような状況で、ある人は自らのこれまでの憎しみを投影して積極的に協力するかもしれません。グループ間の不平等は容易に集団的な憎悪につながります。(http://jica-ri.jica.go.jp/ja/focus/jica-ri_focus_vol11.html)。カンボジアでは都市と農村の経済格差が大きく、農村が都市生活の破壊を心情的に支援したという面があるでしょう。ルワンダの場合も過去に優遇されてきたツチ族が経済的に豊かであることに対するツチ族の不満がありました。したがって、集団的な不平等の是正は途上国の公共政策の中で、紛争予防の面から重要だと思われます。

「虐殺に加担したくない」と思っていても「敵を殺さなければお前も敵だ」と黙示、明示の脅迫や恐怖心から協力するかもしれません。人間が集団を作る本質は、相互扶助や共同の防衛なのですが、集団外に対しては協力的になることもあるし敵対的になることもあります。その集団の一員として保護を受けるためには集団に忠誠を尽くさなければならない。そして、集団のメンバーかどうかをあらわす印として「アイデンティティ」が求められます。これがアイデンティティ・ポリティクスの本質で、集団がどんどん排他的になっていく危険があります。
Gedc0278 ジュノサイドとはジュノ(geno)=民族とサイド(cide)=殺人を組み合わせた言葉で、民族や部族全体の抹殺を意図した大量殺人を意味し、ナチスによるユダヤ人虐殺や第一次大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺などに使われていました。ナチスによるユダヤ人のジュノサイドは衝撃的で、戦後その経験・知識・反省が共有されてきたことから、もうこのような悲惨なことは起こらないと長らく思われていました。しかし、1970年代のカンボジアで100万人以上の犠牲を出したポルポトによる虐殺が起こり、さらに1990年代のルワンダでも虐殺事件が発生しました。このことは、人間が虐殺を行うことは稀なことではなく、条件さえそろえば、これからも同様の事件が起こる可能性があるという新しい反省をもたらしています。

いずれにしても、虐殺の芽はどこでも誰にでもあります。自分の底に潜む「悪魔」に気がつかず、あるいは目を瞑り、自分は「善意」「正義」の側にいると信じて疑わなかった人々が虐殺に加担していったのだと思います。 同じグループの中では助け合いに熱心な人が他のグループには残酷に対応することもあり得ます。「地獄への道は善意で敷き固められている」という言葉をかみしめたいと思います。

写真説明

(1)ニャマタ(Nyamata)の教会。ここで2000人以上が虐殺されました。

(2)ンタラマ(Ntarama)の教会。現状を保存をするため屋根がかけられています。

(3)ンタラマ(Ntarama)の教会。犠牲者の衣服が残されています。

(4)キガリのジュノサイド記念館から見たキガリ市内。新しいビルディングが続々建設されています。丘陵地にあることから「千の丘(ミル・コリン)」と言われます。

(5)キガリの中心部にある、代表的なホテル ”オテル・デ・ミル・コリン」。1994年の虐殺時、ホテルのマネジャーが逃げ込んできたツチ族の避難民を匿い、命を救いました。映画「ホテル・ルワンダ」の舞台です。

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