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2011年12月

2011年12月29日 (木)

ファンジビリティー (政策の目標と効果の検証)

子ども手当に関する厚生労働省の調査結果が報じられています。これによれば、子ども手当を受けとった人のうち、78%が子どもの生活費や教育費などに使用したと回答している一方で、「子供に限定しない生活費」(22.3%)や「大人の遊興費」(1.5%)などという回答もあります。「未定」も16.5%に達しています。複数回答であることもあり、ここから政策の効果を検証することは難しいですか、もし政策の効果を測ろうとするのであれば、このような問いかけは効果の検証手段としては必ずしも十分ではありません。

まず、ひとつの問題は、「ファンジビリティー」(fungibility)です。これは「金に色目はない(Money is fungible)」由来しますが、手当の効果を把握するためには、支給された金額そのものの直接の使い途ではなく、手当が支給されたことにより、家計の支出項目の全体構成がどのように変化したかをチェックすることが必要です。例えば、支給された金額そのものは、即座に生活費やローンの支払いに使われてしまったとしても、家計全体としては一定期間(たとえば一ヶ月間)の子供への支出が増えるか、減少を食い止めることができたとすれば、そこには「家計の子供への支出を支援する」という政策効果が認められます。これまでの収入に加えて付け加わった手当、貯蓄などの資金源をどのような使途に配分しているか、手当が追加されたことによってどのような変化が生じているかを見ることが政策の効果を確認するために必要な検証だと思います。但し、このためには詳細な家計調査が必要です。厚生労働省の調査は、速報ベースを目指したものであり、そこまで行う時間も費用もなかったと推察されますので、別に今回の結果にケチを付けるつもりはありません。

「ファンジビリティー」は国際協力/開発援助の関係者の間では、特に援助の効果を検証する文脈でよく議論になる問題です。ドナーが援助してプロジェクトが計画通り完成したとしても、支援を受けたことによって途上国の側で浮いた金がどのような使途に使われるかを見ていかなければ不都合な結果を生じることがあります。教育や保健衛生に支援し、それらの支援自体は効果が確認できるとしても、支援を受けたことにより側に余裕資金が生じているならば、それが無駄な公共事業や軍備増強などの不適切な用途に使われてないかチェックが必要です。不適切な予算管理を放置すれば、やがては教育や保健衛生プロジェクトにも長期的に維持管理資金不足等の影響が及んできます。

このことは、子供のお小遣いの例を考えればよく理解出来ます。100円しか持っていない子供がいて、その子供が100円のノートと100円のチョコレートを欲しいと思ったとき、お母さんにノートとチョコのどちらをおねだりする方がお小遣いを確実にもらえるでしょうか。答えは明らかにノートです。お母さんは、勉強のためにノートを欲しいという「よい子」を支援するためにお金を渡して、結果的には子どもの肥満、虫歯のリスクを高めているかも知れないのです。

開発援助の世界では、このような問題意識から、非援助国の財政全体を透明化し、全体としてどのような開発政策の目標を立て、そのための必要資金を積算し、資金ギャップを援助などで支援していく方向に進みつつあります。このためのツールとして「公共財政管理」の手法が広く取り入れられて来ていますが、これについては話が長くなるので稿を改めたいと思います。最も重要なことは、政策の目標(ゴール)、成果(アウトプット)などを明確にして、何をどれだけ達成するかという、指標とその入手方法を最初に確認し、その上で政策選択を議論すべきということです。限られた資源のもとで成果をあげるためには一つ一つの政策的加入とその効果についての十分な検証が不可欠です。

子ども手当の場合には、子ども手当法にはその政策目標として「次代の社会を担う子どもの健やかな育ちを支援する」ために「給付を行う」ことが示されていますが、極めて抽象的です。ただ、制度の趣旨に鑑みれば「家計の子供への支出を支援する」(アウトプット)ことによって「少子化問題を緩和する」(アウトカム)、さらに「長期的に少子高齢化にともなう経済・社会の深刻な問題を緩和する」(ゴール)ことが政策体系と推定されます。しかし、このような政策目標、されに指標やその入手手段が明確に示された上で議論が行われているわけではありません。それが、不毛な政治論争を生み出し、政策が政争の具となり、ポピュリズム(人気取り)に囚われる土壌を作り出しています。

政策目標が何であり、それをどのような手段で実施して行くのが最適か? 具体的、科学的な証拠(エヴィデンス)に基づいて客観的な議論を積み重ねていくことを通じてしか、適切な政策形成を行なっていくことはできないと思います。このような、政策形成にまず必要なことは、国民の側で、「需要」を作り出すことです。政治を国民の手に取り戻すということは、とりもなおさず、国民の側で政策に関する理解を深め、目標や効果の検証を冷静に考えなければなりません。そのために役立つような情報や見方をこのブログでも引き続き提供して行きたいと思います。

<付記>
今回の調査結果で、全体の家計の変化を聞いていないのは残念ですが、子ども手当受領によって生じたコミュニケーションの変化を聞いていることは大きく評価されます。この中で「子供を増やす計画を立てたかどうか」という設問に対して、「非常にあてはまる」「ややあてはまる」という回答は計13.6%、「ややあてはまらない」「まったくあてはまらない」の合計は69.2%です。この結果から。「少子化対策としての効果は小さい」と見るか、それとも「10%以上の回答者が子供を増やすことを検討中なのだから、大きな効果だ」と評価するかは難しいところです。

2011年12月13日 (火)

被災地のインフラの復興 企業の役割と政府の機能

Dsc_0080 4月以来、何回も現地に赴く中で、いくつか気になっていることがありますが、その一つがインフラ、特に鉄道の復興です。三陸沿岸の被災した大部分の区間、特にJR線はまだ一部を除き本格的な復旧作業に着手されていませんし、復興に向けた意思も見えてきません。。一方、第3セクター企業として地元の自治体や企業が出資する三陸鉄道からは復興へ向けた意欲と熱意が伝わってきます。

Dsc_0030 11月19日、20日の両日、盛岡市で開催された日本評価学会に出席しましたが、この機会を利用して、岩手県の三陸沿岸に行ってきました。時間が半日しか取れなかったので、具体的な支援活動に参加はできませんでしたが、部分的に営業を再開している三陸鉄道に往復乗車することで何がしかの支援することとしました。早朝の新幹線で東京駅を出発して盛岡に約2時間半で到着しましたが、ここで、山田線の11時過ぎの快速列車を待ちます。実は、11時過ぎのこの列車が、盛岡から宮古に向かう始発列車なのです。宮古は岩手県の三陸沿岸では陸前高田、大船渡、釜石と並ぶ主要都市の一つですが、県庁所在地の盛岡と結ぶ山田線の列車は一日4本しかありません。盛岡と宮古間は並行する国道106号線のバスが、一時間に一本以上運行されており、主要な交通機関になっています。対する山田線は、バスと比べて所要時間でほとんど差はなく、運賃はむしろ安いくらいなのですが、まったく競争になっていません。「やる気がない」と言われても仕方がない状況です。実はここに、地方の交通を維持するための現行制度の根本的な問題があると思います。

山田線、あるいは今運休している被災地の線の多くはJR東日本線です。JR東日本はいうまでもなく株式が全額公開されている民間会社で、株式会社である以上、株主利益を図らなければなりません。「駅ナカ」など最近のJR東日本のビジネスは目を見張るものもあり、黒字を続け、配当も順調です。しかし、高収益が見込めない、あるいは赤字にもかかわらず社会的要請で継続せざるを得ないローカル線がお荷物であることに疑いはありません。「できれば廃止したい」というのが本音でしょう。それは、JR東日本の経営方針の是非の問題ではなく、民間会社の内部補助で地方の交通を維持しようとした「国鉄民営化」の制度設計の問題です。

Dsc_0060 閑散とした(そのために空いていて快適な)山田線で約100キロ2時間、宮古に着いて三陸鉄道に乗り換えると、まず活気が違います。一両で運行されている列車ですが、高校生で席の8割は埋まっています。車両は「復興支援列車」と表示されて、全国からのさまざまなメッセージが掲示されています。岩泉町の小本まで約40分の乗車です。途中、田老を通りました。田老は、「万里の長城」と称された巨大な堤防を乗り越えて津波が襲い、街は壊滅しました。その田老の駅でも乗降が結構ありました。被災地の光景どこも同じかもしれませんが、鉄道が動いているという事実が人々の希望に与える効果は大きいと思います。

Dsc_0076 JR線と三陸鉄道の違いは、まず地元の出資があるかどうか、そのオーナーシップの問題です。学会で岩手県の復興担当の方ともお話をする機会がありましたが、JR線に関しては、県としても資本関係がないので関与できない嘆息されていました。三陸鉄道の復興については、第三次補正予算で復興に不可欠な交通機関ということで予算の手当がなされました。一方、JR線については「黒字会社なのだから自社で手当せよ」ということで、予算手当は今のところなされていません。被災地の鉄道の復興に、これだけの差が出てくるのは不合理と言わざるを得ません。

被災地の鉄道復興については、対立する二つの意見があります。ひとつは「日本の中枢崩壊」「官僚の責任」などの著者、古賀政明氏の意見で、鉄道とバスに資源を分散させず、鉄道は思い切って廃止してバスに一本化せよというものです。これに対し、原武史氏は「震災と鉄道」の中で、鉄道や鉄道駅がまちづくり、今後の復興に与える効果を考え、人々に希望を提供する意味でも鉄道での復興を強く主張しています。私は基本的にどちらも正しいと思います。公共交通の維持が、「穴のあいたバケツ(fiscal  drain) 」であってはいけないと思います。一方、原氏の主張するような鉄道の持つ多面的な役割や人々の心理への影響を考えれば、簡単に鉄道切り捨てを主張する考えにも賛同できません。

P3090073 最近、JRから一つの提案がなされています。それは、被災した鉄道線路をとりあえずバス専用道路として整備してバスを走らせるというものです。もちろん、これはJR東日本による巧妙な鉄道廃止作戦と見ることもできますが、この方式には大きな利点があると思います。線路復旧の場合には高台移転など都市計画の決定を待たないと線路の移設等が決められず、時間がかかり、その間に公共交通そのものが衰退してしまうリスクがあります。一方、バスを線路上で運行すれば、暫定的ルートでもコストを最小限に抑えられれ、早期に復旧が可能です。将来、都市計画が定まり、ある程度の輸送量が確保できる見通しがつけば、その時点で鉄道としての復興を考えればいいのです。実は、この方式は福島県の白河と棚倉をむずぶ路線(白棚線)で前例があります。ただ白棚線では鉄道廃止後のバス路線と市街地の発展が必ずしもマッチしておらず、この方式の利点が生かされていないと思います。

鉄道は駅で成り立っています。また、市街地は駅を中核として発展してきました。重要なことは、まちづくりとその中で公共交通をどのように町の核および地域の骨格として生かしていくかであって、それがレールの上を走るかどうかは次の課題でしょう。さらにより本質的なことは、地方の公共輸送維持を民間会社の内部補助に任せるべきかどうかを問い直すことだと思います。今や、地方のバスはほとんどが公的な助成を受けて運行されています。線路上をバスが運行することになれば、周辺のバス路線との調整も必要になります。地方の交通機関は基礎的なインフラであり、政府(公共政策)の役割である、ということを再確認、再定義することが急務になって来ています。

<写真>

(1)田老の街。巨大堤防は津波を防ぎきれませんでした。

(2)山田線 原武史氏の著書でも、観光資源としての活用が提唱されている、景色の良いルートです。

(3)三陸鉄道 復興支援列車

(4)同上

(5)福島県の白棚線。鉄道を廃止したあと専用バス道にして公共交通を維持しましたが、現在では専用道の区間は少なくなり、町外れを走る「ただのバス」化が進んでいます。都市計画や都市政策といかにリンクさせるかが、この方式の課題です(2004年3月撮影)。

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