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2011年4月

2011年4月23日 (土)

本当に「つぶせない」ものは何か?

先日、大学のゼミナールで「災害と開発」というセッションをもちました。その中で話したのは、たとえば災害で被害を受けた産業、企業、あるいはより一般的に生計手段を直接に無償資金でサポートするのは難しいということです。部分的には政府が損害を一部カバーすることもありますが、基本的には公的部門の役割はインフラなどに限られます。生計手段の回復のための支援措置として最も一般的なのは長期・低利の融資です。これでも、被災者にとっては助けにはなりますが、結局は債務の返済負担が生じ、場合によっては大きな重圧となってしまいます。

なんとか債務負担を軽減しながら再生をサポートする方法はないか。そこでゼミで私が提案したのは「国有企業」を活用する方法です。三陸沿岸の漁業は今回壊滅的な打撃を受け、多くの漁船が損壊したり、流されたりしています。かろうじて使える漁船も費用がかさむことから、修理すら困難な状況です。それならば、国が出資をして漁業公社を設立し、使える漁船は所有者に現物出資してもらって国の費用で修理をする。すべて失った場合でも、ストックオプションのような形で株式を購入する権利を割り当てる。これまで漁業に従事していた人はとりあえず漁業公社の従業員になる。そして事業が軌道に乗ったら、漁業従事者が株式を購入して、徐々に「民営化」していけばいいのです。場合によっては、公社から漁船を買い取って再び独立するというケースがあってもよいでしょう。

そう考えていたら、ほとんど同じような提案が出てきました。http://www.asahi.com/politics/update/0422/TKY201104220628.html

宮城県知事の提案とのことです。さすがに地元から出てきたアイデアで、早く実現を望みたいと思います。しかし、このニュースで見逃せないのは「水産庁は国有化には否定的」とされている部分です。このアイデアのどこを否定的に考えなければならないのでしょうか?

国が困難に陥った民間企業に出資(資本注入)することは良く行われています。金融業界がそれです。不良債権問題で経営困難(債務超過)に陥った銀行に、総額数兆円の資本金が注ぎ込まれました。もちろんもとは税金です。しかし、なぜ経営のミスを行った銀行には資本が注入されるのに、津波で生産手段を失った中小事業者にはそれができないのでしょう。

福島第一原子力発電所の問題で、東京電力が数兆円の補償に直面します、しかし電気の供給を止めることはできませんので、原発はともかく他の発電所はやめられません。清算してすべての資産を売却しようとしても補償込みでは誰も買いません。株主(資本金の原資)、債権者、従業員などの利害関係者がすべてを吐き出し、受益者が電力料金の値上げを受け入れたとしても、とても足りません。そこで、現在提案されているのは、東京電力の国有化あるいは国が肩代わりする・・・どちらにしても最終的には国民の負担になります。

銀行も電力会社も"大きすぎてつぶせない too big to fail"のです。東京電力の対応(特に幹部の対応)を見ていると、「いずれは政府が助けてくれる」という意識をどうしても垣間見てしまいます。

"Too big to fail” 問題は経済システム上の難問です。しかし、一つだけはっきりしていることがあります。銀行がつぶれれば経済が大混乱し、一番打撃をこうむるのは一般国民です。電気の供給がなくなればやはり一般国民が一番困ります。「本当につぶれて困る」のは銀行や電力会社ではなく一般国民の生活です。

一般国民の生活が一番重要で、それこそが「つぶせない」。このことを政府はもっとはっきりと打ち出すべきです。そして、そのためには、今回の災害のような事態に対しては、国民全体でその再建費用をシェアしていくことを、政治家の責任としてはっきり打ち出さなければなりません。菅首相の「最少不幸社会」というコンセプトは大変重要で私も賛成しています。しかし、現在まだ、それは中身のない「空き缶」のままです。

2011年4月12日 (火)

フローとストック

震災から一か月がたち、復興や再生への希望が語られるようになってきました。復興需要が国内総生産(GDP)を押し上げ、長期のデフレからも脱却できるのではないかとの希望も語られています。希望が出てきているには素晴らしいことですが、二つの点に注意する必要があると思います。一つは供給の制約です。電力がその最たるものですが、そのほかにも基礎的な資材や機械などの供給が工場の被災などで制約されており、復興需要に対応できるかどうか、あるいは品不足や(デフレ脱却どころか)価格の高騰を招かないかどうかが懸念されます。過剰な自粛ムードは経済への打撃となり二次被害を招きますので、今日(12日)の菅首相会見でも言及されていたように、「普通に消費」することが必要ですが、一方で供給の制約にも配慮しなければならないので、結構難しいかじ取りになります。3月中の東京でのナイター実施にこだわった一部のプロ野球関係者は、この点の認識を欠いていたといえるでしょう。

もう一つは、「荒廃からの復興」のイメージに落とし穴があることです。第二次世界大戦で焦土になった日本が急速に復興できたのは、戦争で老朽設備が破壊され、新たに設備投資を行わなければならなかったこと、その結果として効率性が高まったこともありますが、なによりも国のあり方、政治、社会さまざまな面で新しい考え方に転換し、平和国家として産業発展に注力したことです。つまり、単に戻すという「復旧」ではなく、新しいものを創り出す「復興」が重要なのです。

ある子供が石を投げて窓ガラスを壊してしまった。その子供が言い訳に「いいじゃないか、町のガラス屋さんが儲かるのだから」と言ったらどうでしょうか。実は、復興需要が経済を押し上げるという発想は、どこかこの子供と同じ勘違いをしています。このような発想は経済のフローの増加だけを考えて、ストックの毀損を考慮していません。よりよいストックを構築できなければ、災害前の水準を超えて豊かになることはできないでしょう。災害の経験をふまえて、インフラや町、住宅、産業など新しいものを作り出すことが必要です。ただ、問題は国の制度で、「復旧」の予算は認められても、新しいものを創り出す「復興」になると、予算がゼロから査定され、実現の難度が高くなるという問題が、過去の災害のケースでも指摘されています。この件については後日詳しく再論したと思いますが、カギとなるのは「政策」「制度」の変革で、これは市民が声を上げなければ実現できないです。

このようなフローとストックの問題は、途上国の開発問題でもあります。豊かさ(貧しさ)の指標として一人当たり国民総所得(GNI)が使われていますが、GNIにしてもGDP(国内総生産)にしても、1年間の付加価値というフローの概念で、安定した社会、豊かな自然といった人々を豊かにする「ストック」は考慮されていません。この結果、住民が入会地として、キノコや果実、薬草などを採取していた森林が、プランテーションに転換され、住民はそこで労働者として働き、賃金を得てスーパーマーケットで買い物をするというような事態が世界各地で生じています。商品として取引されますので、GNIやGDPの数値が高くなり、貧困削減されていると説明されますが、人々の生活の質はかえって劣化していることが多いのです。

自然や人間関係といった資産(=ストック)にもっと目を向けることが必要です。

2011年4月 1日 (金)

ブログ再開します;「公共性」と「国際協力」の再定義

2か月ほどブログをお休みしていました。コメントいただいた方には申し訳ないことをいたしました。2月は成績評価や試験などで忙しかったこともありますが、それ以上に、中東から始まる変革のうねり、リビア情勢など、あまりに動きが激しく、フォローできなかったことがあります。それに加えて今回の震災です。とても考えの整理ができませんでした。

まだ、福島原発の状況も落ち着かず、復興資金確保をどうしていくのかなど難問がありますが、ひとつ見えてきた論点があります。それは政府の役割です。

以前も議論しましたが、政府の役割の一つは、共同でリスクをプールして対処することです。政府の大きさは、民主主義の下では、どの程度のリスクを予想して、それをどのように負担していくかについての社会的選択で決まってきます。極端なケースとしては、公的な医療保険制度にも否定的な米国のティーパーティーのような立場で、それを基本的には個人の自己責任に帰していこうとする立場です。このような保守主義の立場でも、対外戦争という最大の「共同の困難」(シュンペーター)に対処するための軍事力は否定するどころかむしろ強化を主張していますので、リベラルな立場との違いは「どのようなリスクを共同でプールするか」に拠ってきます。

通常の災害であれば、インフラの復興に国の資金を投下することについて議論の余地はないとしても、民間の設備や個人の生活の再建に政府がどこまで支援すべきかということについては議論になります。しかし、今度の地震でわかったことは、我々の想定どころかイマジネーションさら超える災害が起こり、またその被害の規模が個人はもちろん、地域社会や地方政府、場合によっては一国の政府の対応能力すら越えているということです。被害者に寄り添って最大限の支援をしていくべきだという考えが広がり、」生活の再建に政府が公的資金で支援するべきことにもコンセンサスができつつあります。「連帯」という言葉が今キーワードになってきているのは大変すばらしいことだと思います。大量の義捐金やボランティアが活動しているのはもちろんのこと、それ以上に重要なのは、復興資金確保のために増税はやむを得ないし、むしろ行うべきだという世論が強くなってきている(と少なくとも思われる)ことです。つまり公共性の担い手は一人ひとりの市民であって、政府などの公共部門あるいはNPO/NGOの役割は一人ひとりの公共活動を容易にし媒介することにその役割があるのです。ここに、おそらくこれまで議論されてきた「新しい公共」とは何かを解く鍵があると思いますし、「大きな政府」か「小さな政府」といった不毛の議論を乗り越えられえるきっかけがあると思います。

今回の災害は甚大かつ悲惨なものですが、昨年1月にはハイチで大きな地震災害がありました。何万人もが犠牲になったり大きな影響を受けている災害は毎年のように発生しており、特に開発途上国では大きな災害は一国の対処能力を超えてしまいます。まさに「国際的な連帯」が必要とされるのです。この「国際的連帯」こそが「国際協力」の本質であるべきでしょう。

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