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2010年8月

2010年8月15日 (日)

クメール・ルージュによる虐殺と特別法廷(3)

Simgp3249 11日からカンボジアに滞在しています。昨日、1年ぶりにトゥール・スレンへ行ってきました。クメール・ルージュ特別法廷でカン・ケク・イウ(ドゥック)に対する判決が出たという状況下、展示にどのような変化があったかを見るのが目的でした。

四棟のうちCと言われる建物の3階に、現在拘束されている、ヌオン・チュア、イエン・サリ、イエン・シリト、キュー・サンファンの4人の犯罪行為を示した展示がありました。これまでに2回来た時にはC棟の3階までは上がれなかったので、新しい展示だと思います。A棟、B棟でも2、3階で工事が行われており、立ち入りができなくなってしました。もしかしたら、展示を増やす計画かもしれません。ただ、今回見た限りでは、そのほかの展示物に変化はありませんでした。

Simgp3199 現在のカンボジアのフン・セン政権が特別法廷に消極的であることはよく知られています。フン・セン首相自身が途中まではクメール・ルージュのメンバーであったこと、クメール・ルージュが1998年に投降した際に、事実上の恩赦を与えるなどの「取引」を行っていること、このようなことから改めてクメール・ルージュの責任追求を大々的に行った場合には内戦の再発の危険があるとフン・セン首相が認識していることがその理由です。トゥール・スレンの展示を見ても、クメール・ルージュへの責任追及は幹部の4人にとどめておきたいという意図が見え隠れします。

(写真は右がヌオン・チュア、左がイエン・シリト)

Simgp3241 前回も書きましたように、現在、拘束されている4人は、自分たちは虐殺には関与していない、あれはすべてポル・ポトの指示だったと主張しているそうです。一方で、ポル・ポトの晩年のインタビューが残っていますが、「自分はクメール・ルージュの指導者にはなりたくなかったが他に誰もいなかったので仕方なく最高指導者になった。ただ、最高指導者だったが自分は部下の行動の詳細まで知る立場にはなかった」と主張していたそうです。幹部たちは責任逃れに終始しています。多分、真相は明かされることはないのかもしれません。

今回、トゥール・スレンの展示で一つだけ変化があったとすれば、カン・ケク・イウ(ドゥック)やヌオン・チュアの写真に落書きがされていたことです。クメール語なのでわかりませんでしたが、ドゥックへの判決の軽さ、チュアの責任から逃げ回る態度に対するいら立ちの高まりを示すものでしょう。

(落書きされたドゥックの写真)

クメール・ルージュの悲劇から、もし教訓を考えるとすれば、それは「これからも、いつでもどこでも起こりうることだ」ということです。クメール・ルージュの指導者たちは、現在の姿を見る限り、極めて平凡な人間たちです。ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サンファンらはフランス留学経験があり、ヌオン・チュアはタイの名門タマサート大学の出身です。シアヌーク国王も、クメール・ルージュの幹部たちをインテリと評価していたようです。

ポール・コリアー教授は、世界の独裁者には、略奪者、精神病質者、権力亡者など、パーソナリティーに問題がある場合が多いと指摘していますが、クメール・ルージュの指導者たちには「他人の痛みに鈍感」という共通点はあるようですが、強欲でも権力亡者でもなさそうです。相互不信の疑心の中で権力闘争を繰り返し、そのような相互不信が社会の末端まで行きわたってしまった結果として、目に見えない権力の影におびえて、密告や虐殺への関与が行われたというのが事実に近いのではないかと思います。革命を信奉する前衛党での同志の虐殺という事例は、日本の連合赤軍事件でも見ることができます。現実感覚を失った観念論に流されることは危険です。政治や社会がチェック・アンド・バランスを失ったときに、どこでもクメール・ルージュの種は転がっていると思います。、

2010年8月 1日 (日)

クメール・ルージュによる虐殺と特別法廷(2)

S21(トゥール・スレン収容所)の所長、カン・ケク・イウ(ドゥック)の判決は世界中に報道され、大きな反響を生みました。S21は膨大な証拠を残したため、そこの収容所長であったドゥックの責任は免れません。S21から郊外のキリングフィールドに運ばれ殺害された人数は1万6千人以上と言われます。キリングフィールドには現在は慰霊塔が立てられ、発掘された遺骨が性別、年齢別に分けられて収められています。稀有な犯罪行為の物言わぬ証人というべきです。これを見て、クメール・ルージュの犯罪性を考えない人はいないでしょう。

Kf1 しかし、一方で、ここで殺害された人数は、クメール・ルージュの時代にカンボジア全土で犠牲になった人数の1%程度にすぎません。プノンペンの南約100キロのタケオ周辺の農村を訪れた時、プノンペンにあるものより小型ですが、やはり同じような慰霊塔がありました。殺戮は全国で行われていたのです。ドゥックの責任は免れないとしても、彼一人の責任を追及しただけでは不十分なことは明らかです。

では、全国レベルでの虐殺の責任は誰にあったのかということですが、現在拘束されている他の4人の幹部はいずれも虐殺の直接の責任を否定しています。4人ともポル・ポトが政策全体の責任を負う立場にあり、自分たちはそれに従わざるを得なかった、さもなくば自分たちが殺されていたはずだ、また虐殺行為そのものの事実を知らなかったと主張しています。また、彼らが直接、虐殺行為を行っていたわけでないことも強調しています。後者については確かにそうでしょう。高位高官が直接、殺害の「作業」を担当することは普通ないでしょう。

虐殺の事実を知らなかったということはあり得ないと思いますが、ポル・ポトに逆らえなかったというのは多分事実でしょう。

一方、ポル・ポトが終始一貫最高権力を独裁的に振るっていたかというと、この点にも疑問符がつきます。ポル・ポト(本名はサロト・サル)の存在は長らく謎でした。独裁者として表にでることはなく、強力なリーダーシップを発揮したという事実も明らかになっていません。ポル・ポト政権時代に外国のメディア(確か当時のユーゴスラヴィア)がポル・ポトとのインタビューを行い、全世界に謎に満ちたポル・ポトの姿が初めて報道されました。私もそれを35年以上も前に見たことがありますが、終始、物静かに応答していたことが今までも印象に残っています。そのポル・ポトは、ジャングルの中に逃げ込んだ後の1998年に拘束され、翌99年に死亡していますが、これについても失脚・殺害されたという見方があります。ポル・ポトを中心に幹部たちが、疑心暗鬼になりつつ、権力に忠誠を示す競争を行いながら権力闘争を続けていたというのが実態ではないかと思います。体制や権力に忠誠を示す競争の中で、忠誠度を示す指標として、敵性分子の摘発が重視され、それを通じて相互監視の中で集合的に虐殺が行われた(したがって、誰かが誰かに虐殺を直接指示したという証拠は見つけにくい)というのが真相かもしれません。何が何でも敵を見つけ出して殺さなければならないという「空気」に支配されていたといってもいいでしょう。

一方で、虐殺の直接の犯人(下手人)あるいは情報提供者への責任追及となると、極めてて大きな困難があります。現在、50歳以上の年代の人は、当時の体制に協力しなければ生存できなかったのです。例えば、クメール・ルージュの兵士にキリング・フィールドに連行されて「虐殺行為」を命令されたような場合、それを拒めば今度は自分が虐殺されていたという状況の下で、この人は「加害者」なのか「被害者」なのか? きわめて難しい問題といわざるを得ません。虐殺行為に加担したあと虐殺された人も、若い人を中心に相当の数に上るそうです。ポル・ポト時代が人々の心に残した傷の最大のものは残された人の被害・加害が交錯する感情でしょう。S21(トゥールスレン)収容所の展示には、ポル・ポト派の兵士だった当時の若者の現在(50代以上)の姿とその証言が展示されています。「あのころは若くて何もわからなかった。ただ夢中でついて言った」、「早く忘れたい」・・・・

ポル・ポト政権時代の虐殺を含む政策の形成と実行がどのように行われていたかは、今、歴史の闇の中に消え去ろうとしていますが、実は、同様な悲劇の再発を防ぐためにも、これらの点の解明が今一番必要なのです。80代の老人に最高終身刑を科すことよりも、刑事免責をしたうえで、事実についての正確な証言を引き出す方が将来への意義は大きいはすです、しかし、ドゥックへの判決に示された被害者・遺族の感情はそれを許さないでしょう。

(続く)

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