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2010年7月

2010年7月27日 (火)

クメール・ルージュによる虐殺と特別法廷(1)

カンボジアを1975年から1979年の間支配したクメール・ルージュによる犯罪を裁く特別法廷が、最初の判決を下しました。トゥール・スレン収容所あるいはS21と呼ばれる施設の所長だったドゥック(カン・ケク・イウ)に対するものです。収容所における拷問、およびそれに続く処刑で16,000人以上を殺害した罪に問われたものです。判決内容は求刑の禁固40年に対し35年、ただし未決拘留期間などが算入されて実質的な禁固期間は19年とされました。

この判決はクメール・ルージュの虐殺遺族から「軽すぎる」との憤激を買っています。もともと、クメール・ルージュの特別法廷は死刑の規定がなく、終身刑が最高刑です。ドッチ被告の67歳という年齢を考えれば実質的には終身刑と言ってもいいでしょう。しかし、被害者感情からすれば納得できるものではないことはよくわかります。このクメール・ルージュ特別法廷問題は、大規模な虐殺事件における正義追求と被害者救済のありかたについて、難しい問題を投げかけています。以下、以下、この問題を何回かに分けて連載します。

現在、特別法廷で訴追されているのは、ポルポト派実質ナンバー2で最高幹部会議長だったヌオン・チェア、ポルポト派の幹部で外相だったイエン・サリとその妻で同じく幹部だったイエン・シリト、ポルポト政権の民主カンボジアの大統領に相当する最高幹部会議長だったキュー・サンファンの4名です。最高幹部のポル・ポトは1998年に死亡しており、その他、多くの幹部が既に死亡しています。現在訴追されている幹部もイエン・サリ夫妻の88歳をはじめとして80歳以上の高齢で、時間との戦いになりつつあります。

現在訴追されているヌオン・チェア、イエン・サリ夫妻、キュー・サンファンらは虐殺への関与を否定しています。これら4人は「すべてポル・ポトが指示したものであり、逆らえなかった。虐殺行為には関与していない」と抗弁しています。ドゥックが最初に訴追され判決に至った理由は、S21=トゥール・スレン収容所の所長として、少なくともそこで行われた拷問と、その後の処刑場(Killing Field)送りに関しては、責任逃れができない立場にあったからです。

2 トゥール・スレン収容所はプノンペンの市内にあり、かっては高校(リセ)の建物でした。クメール・ルージュが1975年4月にプノンペンに突入し政権を奪い取った後、政治犯の収容尋問施設として使用され始めました。ポルポト政権は政権奪取直後から、都市住民の農村への強制移住、農業の集団化を進めましたが、このような強制的な方法で人々に生産の意欲を持たせようとするのはもともと無理なことです。2年目以降になると農業生産の停滞が顕著になります。そこで開始されたのが「裏切り者」「スパイ」探しです。「米国のスパイ」、あるいは当時関係が悪化していた「ベトナムの手先」を見つけ出すことに狂奔するようになってきました。トゥール・スレン収容所では、そのようなスパイ・裏切り者を見つけ出すために、拷問が行われていました。拷問の苦しさから、とらえられた人は、身近な人の名前を口にします。それに基づいて新たな逮捕が行われ、さらに拷問が行われましす。このようにして芋づる式に16,000人が逮捕、拷問を受け、そしてほぼ例外なく、そのあと処刑されたのです。処刑された中には、クメール・ルージュのメンバー、さらには幹部もいました。1979年1月にベトナムがカンボジアに攻め込み、その後、この収容所の存在が世界中に明らかになりました。収容所の生存者は8名とされていますが、ベトナムの侵攻時に処刑が「間に合わなかった」人々です。

1 現在はこの収容所はクメール・ルージュの悪行を記録する博物館として整備されています。監獄や拷問室がそのままの形で残されているほか、クメール・ルージュの犯罪行為の記録、関係者の証言などが展示されています。特に訴える力があるのは、収容された人々の個人写真です。収容された際に撮影されたもので、収容所のそのほかの記録とともに、残されたものです。ベトナム侵攻時に処分している時間がなかったのでしょう。

これらの展示物から浮かび上がるのが、虐殺を招いた構造的要因や当時の国際関係の影響などです。

(続く)

2010年7月17日 (土)

IMFの「勧告」

80年代後半、多くの途上国が政府主導の開発政策の失敗から、財政赤字と国際収支の赤字という困難に陥り、世界銀行IMFの支援と引き換えに多くの条件を提示されてそれに従わざるを得ませんでした。いわゆる構造調整政策です。世界銀行は長期的な構造改革、IMFは短期的な資金繰りの改善という違いはありましたが、途上国につきつけられた条件は政府支出の削減、税率の引き上げ、国有企業の民営化、規制緩和、為替レートの調整、貿易自由化などでした。政府支出の削減や税率の引き上げは貧困層を直撃したことから、構造調整政策は「貧困者いじめ」という評価を受けて今日に至っていますが、当時の状況では構造調整以外の選択肢はなかったでしょう。問題があったとすれば支出削減の項目別の優先度や規制緩和・自由化の速度です。

前回の移行経済の記事でも書きましたが、構造調整政策に関しては日本の開発関係者から1991年に問題点の指摘が行われました。構造調整政策は経済の引き締めだけを考えており成長戦略がないこと、成長戦略を指導するという政府の役割を無視していることなどが日本からの批判のポイントの一つでした。つまり財政や対外収支の均衡・安定を重視するか、成長を重視するかという選択です。

しかし、この難しい選択は過去の構造調整にとどまらず、現在世界が直面している問題でもあります。リーマンショック後、先進国を中心に財政資金による経済の刺激が行われました。しかし、これは財政赤字を拡大することになり、長期的には持続可能ではないことから、これをいつどのような形で終わらせるかという「出口戦略」が議論されてきました。先日トロントで行われたG20でもこの点が大きな議論になり、日本を除く先進主要国については2013年までに財政赤字を半減させることが首脳宣言に盛り込まれました。財政規律を保った上で成長を実現するというのはたいへん難しいことです。

そのG20首脳宣言で2013年までの財政赤字の半減はさすがに無理として「除外」されていた日本ですが、一昨日、IMFより消費税を2011年から段階的に15%を軸(14%~22%の範囲で引き上げるべしという勧告が出されました。構造調整時代の開発途上国と違い、日本は貿易黒字国で政府債務もほとんどが国内に対するものですので、「IMFの管理下」に置かれて支援を仰がなければならないという状況ではありません。しかし、世界が次第に日本の財政赤字の問題を深刻にとらえはじめていることは事実です。一番深刻なのは「日本は消費税率の引き上げすらできない政治的指導力を欠いた国」と見られ始めているのことです。これから、次々に生じてくるであろう世界レベルの危機に、依然として世界経済の中で大きな地位を占める日本が、適時かつ適切に対応できるだろうか? もし、それができないとすればそれは世界的な脅威である。核兵器を持ちながらガバナンスを欠いた国と同様、世界を脅かすことになる・・・という懸念が広がっていると思います。

今回の選挙ですが、財政赤字はしばらく手を付けずにしばらくは財政出動による成長をつづけるべきだと主張していた政党は国民新党くらいです。、あとは消費税増税を視野に入れた民主党、自民党と、政府支出の削減を先行すべきということを主張するみんなの党の違いが残りますが、増税も政府支出の削減も緊縮効果という点では同じです。みんなの党は民間部門の成長による雇用創出を主張していますが、政府支出を削減することはそれだけ需要を減らすことですから、簡単ではありません。構造調整を経た後、経済が回復軌道に乗った国の多くは資源輸出か急速な製品輸出によってそれを達成しています。日本にそのような条件がないことは明らかです。自民党は民主党の消費税には「何にあてるのかというビジョンがない」と主張しますが、お金に色が付いていない以上、自民党、民主党の差は本質的ではありません。あとは、みんなの党の主張するうような「公務員の生首」を切るような歳出削減と民主、自民の消費税増税と、とちらが社会的ショックが少ないかという議論、つまり政府の役割の議論を行えばよかったのです。

一方で、マスコミでは「今回の民主党の敗北は消費税を持ち出したことによる」という決めつけが行われ、そのストーリーですべてを解釈し始めています。「消費税増税は政治的に困難」という固定観念が出来上がることはたいへんまずいことで、政策の選択肢を狭めてしまいます。やはり、ワイドショーレベルの言説には問題が多いと言わざるを得ません。国民が適切な知識を持ち、それにマスコミが正確な情報を提供することが、その国の政治的能力の基礎になります。この点では日本はまだ大きな課題を抱えています。

かっては「外圧」が日本の政策を変える大きな要因でしたが、今回の場合も「IMFの勧告」という「外圧」に期待せざるを得ないのかもしれません。

2010年7月10日 (土)

移行経済論争(旧社会主義国の市場経済化)

先日BBCのテレビ番組でウクライナにおける有識者と市民の討論会の様子を放送していました。45分ほどの番組に凝縮されていましたが、何が争点かをよく理解できる見事な編集でした。この討論会を企画したFoundation of Effective Governanceのサイトにその概要があります。

論争のテーマは「旧ソ連圏における市場経済化は失敗したかどうか」というもので、失敗したとする側にはロシアの政治家イリーナ・ハカマダ氏、失敗していないとする側にはウクライナのユーシュチェンコ前大統領夫人などを配して、英語による活発な討論が行われていました。

失敗したとする論拠には、国民生活が市場経済化により悪化していること、法的、制度的基盤がない状態で民営化を強行し、その結果として権力をもった者たちによる欲望の抑制がない政治が行われていること、人々が市場経済化による豊かな生活だけを期待し、格差の拡大や政府の庇護の消失などの事態に対する心の準備がまったくできていなかったことなどが挙げられていました。。

一方、失敗はしていないとする論拠には、市場経済化は失敗したのではなく、遅れていること、改革があまりに小規模で遅いこと(too little, to late)であり、多くの市場経済化に伴う問題はソ連末期の経済混乱の負の遺産を引きずっていることによるものであることなどが挙げられ、市場経済化によって、少なくとも人々にとって自分の希望を実現できる可能性が開けたことは何物にも代えがたいことなどが強調されていました。

賛否両論とも「更なる改革」が必要なことでは一致しています。「失敗派」は市場経済に規範を与える規制、法秩序の確立が先ず必要であることを主張する一方、「反失敗派」は徹底的な改革を行わなかったことが、「寡頭支配」を招いていると突いてくるわけです。また、双方とも、市場経済化のためには民営化などの経済改革だけではなく、政治改革を同時に進め、ガバナンスを改善していかなければならないことでは一致していたことに注目すべきでしょう。

振り返ると、1990年代後半に「移行経済論争」という議論がありました。冷戦の崩壊後、旧社会主義諸国で市場経済の導入が行われましたが。急速な市場経済化は混乱も招きました。当時のソ連や東欧の市場経済化のアプローチは民主的選挙などの政治改革と同時に、規制緩和、民営化(国有企業の売却)などの経済改革を通じて抵抗勢力が既得権を守ろうと団結する前に、一気に改革を行おうとするものでした。これは「ビッグ・バン」のアプローチと呼ばれ、米国の経済学者ジェフリー・サックス教授(当時ハーバード大)などがアドバイザーとして大きな影響力がありました。

これに対して、急速な改革は混乱を招き社会不安の原因になることを批判して、漸進的な改革を主張する「グラジュアリズム」という立場がありました。たとえば中国やベトナムのように、政治改革より安定を重視し、制度の整備や人材育成を掲げながら、個々の国の実情に応じた改革をゆっくり進めていこうとするものです。日本の研究者や開発実務家の間ではこの立場を支持する意見が多数派でした。1991年に日本の海外経済協力基金(現国際協力機構)が中心になってまとめた世界銀行の構造調整政策に対する批判、つまり「市場機能の偏重は誤っており政府の役割をもっと重視すべきだ」という主張の流れにありました。

その後、1990年代末からのエネルギー価格の上昇はロシアの経済を大幅に改善させました。しかし、経済に関する国の関与が強まっていて、政治的にも民主化が達成されたとはとても言えない状況です。東欧諸国や中央アジアの「移行経済国」でも経済の寡頭支配が強まったり、強権支配が行われたりと決して、当初考えたような、西欧型の民主主義とそれを支える市場経済を基礎にした豊かな経済は実現していません。ロシアなどについては「資源の呪い」として考えるべき要素もあります。資源収入があることによって、納税者の目(アカウンタビリティー)を気にせず権力者が欲しいままに政治を行うことができるようになってしまうことです。

では「ビッグ・バン」と「グラジュアリズム」のどちらが正しかったのかについてはどうでしょうか。市場経済を運営するためには、政府の政策、法制度、規制、企業や消費者、一般市民の意識にいたるまで、市場経済の「マインド・セット」になることが必要です。つまり、社会、組織、個人のすべての面での市場経済化に対応した能力(キャパシティ)が向上することが必要なのです。この点では「グラジュアリズム」に歩があったかもしれません。一方で、改革は急速に行わない限り抵抗勢力に阻まれてしまうというのは日本の小泉改革と小泉政権以降何が起こっているかを見れば明白です。上記、ウクライナの議論でも改革が遅いことが多くの問題を引き起こしていると多くの人が指摘していました。「慎重に条件を整えながら、整合的に、しかも急速に」ということが改革に必要なのかもしれません。これは難しいことです。

中国の経済改革は90年代には「グラジュアリズム」とみられていましたが、中国の目覚ましい経済発展は、社会、組織、個人の各レベルで短期間に能力(キャパシティ)が備わった結果とみるべきでしょう。つい12~13年ほど前には国有企業の非効率と改革の遅れ、不良債権問題などが中国経済に関する話題の中心だったことを考えると、大きな様変わりです。環境、インセンティブが変われば能力(キャパシティ)は急速に発展することが可能だということです。ただ、その中国でも政治改革が今後の大きな改革課題かつ難問であることは明らかです。

2010年7月 4日 (日)

ボパールの悲劇

メキシコ湾の原油流出事故の被害が沿岸に広がり、事故を起こしたBP社に対する非難は日ごとに高まっています。「BP社よ、恥を知れ」というプラカードを掲げた示威行動の映像がニュースで流されています。数か月前は同じような非難がトヨタに向けられました。

このような動きを冷やかに、あるいは憤りをもって見ている人々がいます。インド、ボパールの毒ガス流出事故の被害者、遺族たちです。1984年12月3日の深夜にインド、マディアプラデシュ州の州都ボパール市にあった米国企業ユニオン・カーバイド社とインド資本の合弁企業の殺虫剤工場から猛毒のイソチアンサンメチル(MIC)が流出し、4000人が死亡、多くの人々が今も後遺症に苦しんでいるという悲惨な事故です。被害者のの大多数は工場付近のスラムに住む貧困層でした。ロンドン・エコノミスト誌(2010年6月24日)によれば、死者は最終的に25,000人、後遺症被害は10万人という推定もあるようです。まさに核災害なみの規模と言ってよいでしょう。

事故から26年たっていますが、解決というには程遠い状況です。事故後、民事、刑事の責任追及が開始されました。民事では30億ドルの賠償請求に対して、ユニオンカーバイド社とインド政府の間で4億7千万ドルの和解が成立します。しかし、賠償額が少ないこと、インド政府から被害者、遺族への支払いが十分なされていなことが批判されています。刑事事案については今年の6月7日にボパールの地方裁判所が、当時のユニオンカーバイド社の幹部7人に対し過失致死による懲役2年の判決を下しましたが、事故後26年経過してようやく第一審判決という遅さ、さらには会社幹部への判決の寛大さが、事故に対する怒りを呼び起こしています。

この事故では、ユニオン・カーバイド社の米国人社長に対し逮捕状が出されたましたが、インドと犯罪人引き渡し協定を結んでいる米国ががそれに応じていないこともインド側の憤激の種です。米国がメキシコ湾事故でBP社の幹部に責任追及を行うことになれば、インドでユニオンカーバイド社の幹部の引き渡しの問題が再燃するでしょう。当時の米国人社長は現在88歳になっており、責任追及を求めるインド側を焦らせています。インド人にとってみれば、社長を引き渡さない限り、米国はBP社の責任追及できる立場にはあり得ないことです。

このケースも、企業活動から生じた損害の負担のありかたに難問を提起しています。責任追及を厳しくすれば企業活動は委縮してしまいます。インド側も徹底的に米国側の責任追及ができないのは、米国からの投資への悪影響を恐れているからです。事実、今、米国との間では、原子力協定に基づく投資企業への事故などの責任の免責が交渉されており、ボパール事故との関連で注目されています。

世界レベルでの保険制度を構築することが、企業の支払い能力を超えた損害保障に役立つかもしれないと先日書きましたが、保険制度は「安心して事故を起こせる」ことにもつながりかねません。いわゆるモラルハザードです。この問題にはよい解決方法がなかなか見つかりません。

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